日記・コラム・つぶやき

2007年10月23日 (火)

早稲田大学125周年記念イベント

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カウントダウンボード あと0日

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大隈講堂前の記念式典中継。

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記念パレード。南門通り~大隈講堂前まで

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記念セレモニー。鳩の風船が舞い上がる。(環境に配慮した風船)

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記念セレモニー。世界中から来賓。

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司会のキー局アナウンサー。ちょっと緊張・・・。

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大隈庭園の模擬店。

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記念会堂で、第九の演奏会。

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大隈講堂前「WASEDA ON PARADE」のフィナーレ。

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記念行事は終わり、祭りの後の大隈講堂。

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2007年5月30日 (水)

100年前の世紀越え(5)

日本においても午前0時に日付が変わると考えるようになったのは明治以降である。

江戸時代は夜明けが一日の始まりであると考えるのが一般的であった。

 このように、西暦を単純に西洋の暦と狭く解釈することには問題が多いといえる。 

それでは西暦はキリスト教の暦であるといえるだろうか。

確かに、西暦という概念はアンノ・ドミニ(anno domini、主の年から)というキリスト紀元に由来している。

しかし、キリストが生誕したのは紀元前4年であり計算違いであることが後に明らかになっている。

 また、ヨーロッパでキリスト教が国教化される頃の暦にはオリンピアド紀元(BC776年)やローマ建国紀元(BC753年)などがあった。

キリスト紀元は525年にローマ在住のスキティアの僧、ディオニシウス・エクシグウスによって復活祭の暦を作成する際に提案された。

しかしながら、キリスト紀元は17世紀中旬に広まったのである。

フランスのイエズス会のドメニクス・ペタヴィウスが「時間原則について」という著書で提案したのがきっかけとなった。

そして、西暦(グレゴリオ暦)はカトリックにはすぐに受け入れられたが、プロテスタントからは拒絶され続けたのである。

 したがって、一概に西暦をキリスト教の暦であると決めることもできないことがわかる。

 西暦(グレゴリオ暦)は暦として現代人に利用しやすいグローバルスタンダードなのである。

そのグローバルスタンダードの暦が2000年という区切りの数字になると考えるのが自然である。

西暦は確かに西洋の暦であったが、地球と月と太陽の関係をうまくとらえた地球の暦となりつつあるのである。

西暦2000年を目前にして、人類は共通の暦を使用するようになった。地球上の個性ある地域の暦を大切に守り育てると同時に、グローバルスタンダードとしての地球暦である西暦は人類共通の財産であるといえるように思われる。

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2007年5月29日 (火)

100年前の世紀越え(4)

20世紀末の現在でも暦というのは非常に多様である。

ロシアの教会は現在もユリウス暦を使っている。したがって、ロシアの教会ではクリスマスを西暦(グレゴリオ歴)の1月に入ってから行っている。

イラン暦(ジカラリ-歴)では春分の日が一年の始まりであり、エチオピアでは9月6日が新年になり、西暦(グレゴリオ暦)の7年遅れである。

また、ユダヤ教徒は天地創造とされる紀元前3760年、一部のヒンズー教徒は暗黒時代の始まりとされる3102年、イスラム教徒はマホメットがメディナに移った紀元622年が暦の始まりとしている。

この様に世界中には多様な暦があるのである.

そして、イランのカレンダーには太陽暦のイラン暦、太陰暦のイスラム暦、並びに西暦が一緒に書かれている。

断食などの宗教行事を除いて主な行事はイラン暦に従い、イランの人が西暦を利用することはほとんどないという。

しかしながら、日本の年号を知らなくてもグローバルスタンダードとなりつつあるグレゴリオ暦を知らないわけではないのである。

一方、1日のかわり目も、グリニッジ天文台の西経0度線を基準にした日付変更線を境に午前0時に日付が変わるというのが決まっているが、イスラムでは夕方が 1日の始まりであり、ユダヤ暦では午後6時が1日の始まりとなっている。

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2007年5月28日 (月)

100年前の世紀越え(3)

西暦2000年到来にはどのような意味があるのだろうか。

 西暦というものは西洋の暦と認識されている。

しかし、西暦を西洋の暦であるというほど、西洋の暦は一律ではない。 キリストの生誕の年と推定された年を第1年とする西暦は、6世紀にローマの修道僧が考案した。

そして、欧州の一部の国で採用されるようになったのは10世紀頃であるといわれている。しかしながら、そのときの西暦は現在のグレゴリオ暦ではなくユリウス暦であった。

ユリウス暦はユリウス・カエサルが紀元前46年に導入した。

この頃にローマ人が用いていた暦は太陰暦であった。

1年が355日であり暦と季節のずれが生じていたのである。

そこでユリウス・カエサルは太陰暦を1年を365.25日とする太陽暦であるユリウス暦に改暦したのである。

このユリウス暦は、法王グレゴリウス13世によって改暦されるまで1627年間も使用された。 

そしてその後、上述のように法王グレゴリウス13世によって1582年にユリウス暦からグレゴリオ暦に改暦された。

ユリウス暦は1年を365.25日としおり、130年に1日ずつずれてしまうので改暦をする必要が出てきたのである。

ユリウス暦では季節がだんだんずれしまい、3月21日の春分の日になってもまだ寒いという状況が生まれた。

季節と暦があわなくなってしまったのである。

そこでグレゴレオ歴に改暦したのであるが、カトリックは1582年にすぐにグレゴリオ暦を取り入れたが、プロテスタントは取り入れず、1700年頃からやっとグレゴレオ歴を使用し始めた。

この様に、イギリスやアメリカが西暦(グレゴリオ暦)を使用したのは、1752年(18世紀)からであった。

 ギリシャは1920年にグレゴリオ暦に改暦しており、20世紀に入ってからである。 

そういう意味で、18世紀までヨ-ロッパでは正月の時期も違っており、現在の西暦というものが西洋の暦であると考えるより、むしろ、グレゴリオ暦という太陽暦の新暦であると解釈した方が良いのである。

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2007年5月27日 (日)

100年前の世紀越え(2)

一方日本では、前にも触れたが1901年に慶応義塾大学が「19世紀、20世紀の歓送迎会」を500人の規模で開催している。 

1900年(明治33年)12月31日、まさに19世紀が終わって20世紀を迎えようとする夜、慶應義塾では学生主催の世紀送迎会がにぎやかに行われた。

参加者は約500名であった。そこでの送迎の辞は、「19世紀の文明は自然科学の勝利であったが、科学の進歩は貧富の不平等を起こした。

また、政治上思想上の奴隷を救うをもって始まった19世紀は経済上物質上の奴隷をつくるをもって終わった。

19世紀は絢爛たる文明の花を咲かせたが、これを培養して見事に結実せしめるのは実に20世紀に生きる我らの責務である」と述べている。

祝辞のあと晩餐に入った。

会場には歴史的風刺画が数十枚も掲げられて来会者の興味をそそった。

ナポレオン、黒船、日清戦争などが描かれていた。

12時近くになって一同は運動場に移った。

そこには、大かがり火がたかれ、カンテラが林立して昼を欺くほどの明るさであったという。

儒学者の夢や階級制度の弊害、蓄妾の醜態などが表された3面の風刺画をはじめ、福沢諭吉の寓意による風刺画などが掲げられていた。

12時になると学生が3つの風刺画に対して一斉射撃を行い、それと同時に火が点じられると焔があがって、19世紀の悪習が消えてなくなり、20センチュリーの文字がくっきりと浮かび上がったという。

最後に万歳三唱をして1901年1月1日午前0時20分に解散した。慶應義塾学生主催の「19世紀、20世紀の歓送迎会」は、このようにいかにも日本的な世紀越えイベントであった。

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2007年5月26日 (土)

100年前の世紀越え(1)

西暦1900年を中心とした100年前の世紀越えはどのようなものであったのであろうか。

100年前には世紀末現象が起こっている。西暦1900年頃は実は非常に明るい時代であった。車や電気などが20世紀に普及するということがはっきりと予測され、20世紀は非常に良い時代なのだと、人々は未来に明るい展望をもっていた。

 そして、平和で明るい時代は1914年の第1次世界大戦の勃発まで続いた。現在、世紀越え現象が起こっている20世紀末の日本とは比較にならない程、明るい時代であったのである。

そのような楽天的な世の中の風潮の中で一部の人々が20世紀には神への信仰などが失われ、非常に恐ろしい時代が訪れると考えたのである。

それが、世紀末現象である。

この世紀末現象はパリを中心に主にフランスで起こっている。 

100年前の世紀越えには大規模なカウントダウンをベースとしたイベントはなかったといわれている。

そして、20世紀を提示したパリ万博が世紀越えイベントを代表する世紀のイベントであったといえる。 

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2007年5月25日 (金)

100年前の世の中

20世紀初頭の世界人口は16億5000万人であった。国連推計によると20世紀末には約62億人になる見込みであるから、20世紀初頭の世界は現在の4分の1の人口規模であったのである。

 また、日本の1901年(明治34年)の総人口も約4,440万人であり、1996年の約1億2,590万人と比べると約3分の1の人口規模であった。

 そして、この頃の世界は電気、石油、並びに通信などの技術革命に沸いていた。蒸気機関車が電気機関車になり、ガソリンエンジンが実用化されていった。グラハム・ベルが発明した電話でニューヨークとシカゴ間の通話に成功したのもこの頃である。日本も欧米の科学技術の導入につとめ、近代化の道をひた走っていた。

 19世紀末は「イエローナインティーズ」などと呼ばれ黄色がはやった。黄色は不安と反抗のシンボルでもあった。ゴッホは、黄金色のひまわりを描き、糸杉の上で輝く太陽を鮮やかなオレンジ色で彩った。ロートレックは「ムーラン・ルージュ」の踊り子たちをまぶしい黄色で飾ったのである。

 現在日本で大流行のオペレッタが100年前の19世紀末のウィーンでウィンナ・ワルツと一体になって大流行していた。20世紀末の日本は当時のウィーンと似ているともいわれる。ウィーンではハプスブルク帝国の威光は衰え、1873年のウィーン万博が始まっる頃に株価も暴落し、小銭を貯めた多くの市民が没落していった。”バブル崩壊”にあえぐ庶民はワルツの踊りに救いを求め、オペレッタに過去の美しい夢を追ったという。

 また、パリ万博が1900年に開催された。日本人の声の最古のレコードはこの時録音されたもので1900年のものである。「欧米漫遊の川上音二郎一座」が、「オッペケペーをお聞きに達しまする・・・」で始まる。奇異な異国情緒が大当たりして録音したといわれている。パリで川上一座が吹き込んだもので、日本人の声を収めたレコードで最古のものである。

 1900年には米国が中国や英国などを抜き世界一の工業国となっている。19世紀初頭の1800年頃に世界の3分の1を占める工業生産額を誇った中国(清)は産業革命に乗り遅れ、1840年~1842年のアヘン戦争を境にして英国に抜かれ、続いて欧州列強及び米国に抜かれた。

 そして、米国のラスベガスの夜はまだ闇であった。砂漠のオアシスに小さな農場と丸太小屋があっただけである。当時の住人は18人であるという1900年の国勢調査の記録が残っている。

 19世紀は西洋文明が人類の未来にバラ色の夢を描いた産業主義の時代だったといわれている。20世紀にはその反省が台頭し資本主義の発展も植民地支配の上に成立していたにすぎないことに気づき始めていた。

 一方、日本は欧米の科学技術の導入につとめ、近代化の道をひた走っていた。1901年には東洋一の規模の官営八幡製鉄所第1溶鉱炉にに火が入り操業されている。また、ヨーロッパ先進国で書き言葉と話し言葉が一致しているのに気づき、不言一致運動が進んだ。小学校教育の中に国語科ができた。1902年には日英同盟が結ばれた。また、八甲田山死の彷徨も1902年のことである。1903年には第5回内国産業博覧会が大阪・天王寺公園で開催された。海外18カ国の参加も見て、20世紀の幕開けを象徴する新製品が展示された。一番人気は電気冷蔵庫であったという。温度保持のため、一度に50人しか見学できずに行列ができた。夜になると各展示館はイルミネーションで飾られた。電飾をイルミネーションといったのはこのときが最初である。6,700個の電灯が使われ、5ヵ月間の会期中に530万人の人が入場した。

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2007年5月24日 (木)

1000年前のミレニアム

今から1000年前の西暦1000年のミレニアムの到来はどのようなものであったのだろうか。

 1000年前のミレニアムは、暦としての千年紀としての認識はなかった。キリスト教社会における千年王国の到来であった。

 千年王国とは、「キリスト教の世界において終末にあたってキリストが再臨し、千年間統治すると信じられた王国」である。転じて正義と平和が支配する理想的世界や、ユ-トピア、黄金時代を指すこともある。

 したがって、西暦1000年頃はその終末にあたった。キリスト教社会では終末感が漂ったのである。

 ミレニアムの直前の990年代には西暦1000年に終末が来るという確信が世の中に広がっていたといわれている。

 しかし、当時の記録はほとんどない。その限られた記録を残した人の一人に945年から1004年まで生きた修道院改革者のフルリ大修道院長がいる。フルリ院長は若い頃パリの大聖堂に集まった人々の前で紀元1000年が終わるやいなや反キリストが現れ、その後まもなく最後の審判が下り、この世が終わるという説教を聞いたという。しかし、フルリ院長はこの説教に異論を唱えている。フルリ院長は司教である。司教が迫り来るミレニアムについてこの世は終わらないと説教をすれば説得力がある。したがって、ミレニアムには終末に対する不安とそれに対する疑問が混在していたと考えられる。

 そして、西暦1000年から数年経過すると最後の審判が起こらなかったいう安堵から多くの聖堂が改築されることになった。

 また、キリスト教以外の文化圏では西暦1000年の到来にほとんど関心を示さなかった。地球には多様な文化が形成され、それぞれが独自の暦をもっていた。例えば、ユダヤ教徒は天地創造とされる紀元前3760年を暦の始まりとしていた。ヒンドゥー教徒の一部は暗黒時代の始まりとされる紀元前3102年、イスラム教徒はマホメットがメディナに移った紀元622年を暦の始まりとしていたのである。日本は年号を使っていた。この様に、キリスト教以外の文化圏は西暦1000年に特別な関心を払わなかった。

 したがって、当然のことながらそれから1000年後の西暦2000年に地球規模でカウントダウンが企画されることなど想像もできなかったと思われるのである。

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2007年5月22日 (火)

1000年前の世の中

地球の誕生は46億年前といわれている。その46億年前の1月1日の午前0時に地球が誕生したとして、それから現在までの出来事を1年間のカレンダーに仕立てたのが地球暦である。

 地球暦では最初の生物が海に現れたのは5月であり、陸にあがったのは11月下旬のことである。12月の下旬に恐竜の全盛時代になる。その恐竜もクリスマスの日には絶滅して姿を消す。人類は大晦日の晩になってようやく姿を現す。

 人類の最初の祖先といわれているのは1979年にエチオピアで発見された約400万年前の女性の化石人骨で身長1.2メートル体重26キロの「ルーシー」である。調査隊が好んでビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイヤモンズ」を歌ったことから「ルーシー」と名付けられた。この400万年前は氷河が地表を覆う時代であった。「ルーシー」は厳しい自然環境と戦っていたのである。そして、100万年前頃から人類はアフリカから各地へと広がっていった。80万年から70万年前に火を使用し始め、50万年前に原人が現れる。20万年前には旧人となり、約4万年前に人類の直接の祖先であるホモ・サピエンスが現れた。この時が地球暦の午後11時57分48秒頃である。

 そして、1万年前に農業革命が起こる。世界最古の都市はヨルダン川流域のイェリコであり、この頃につくられた。都市が一般化したのはそれから5000年後であり今から5000年前である。そして、西暦1000年となった。西暦1000年は地球暦では大晦日の午後11時59分56秒をまわった頃である。そして、産業革命が起こったのは150年前である。地球暦では11時59分59秒をまわっている。

 この様に、地球暦では1000年はわずか3秒あまりである。しかし、人類にとっては1000年はとても長い時間なのである。

 さて、その西暦1000年頃はいったいどのような時代であったのだろうか。ナショナルジオグラフィック社の2000年特集などから西暦1000年頃の世の中を見てみよう。

 西暦1000年頃の全世界の人口は2億5000万人であったという。当時の世界最大の都市は、スペインのコルドバであり、コルドバには45万人が居住していた。世界人口の増加率は0.1%で、5歳未満の子供の死亡率は5割にも達したという。

 文化は世界各地にばらばらに存在していた。西暦1000年頃の主役は中国であった。

 中国の統一王朝である宋が世界の3分の1近い人口を占めていたのである。地球上の最も豊かな場所で最も文明化されていたのは中国であった。中国の広大な領土で戦いが繰り広げられたり、画期的な新技術が考案され、その影響が遠くの地域にまで及んだという。中国では火薬や紙幣、活字、鋳鉄を製造する溶鉱炉などの様々な発明が相次いでいて、「開宝本草」などの書物が記されている。また、イスラム圏はイベリア半島から北インドまで広がっていた。一方、欧州は中世の暗黒時代であった。

 西暦1000年頃は世界はまだあまり交流をしていなかった。欧州の多くの知識人は地球が平らでないことを知っていたが、あえて外洋に乗り出そうとはしなかったという。例外的に古代スカンジナビア人が現在のカナダ北東部に上陸している。一方、ポリネシア人たちはフィジー諸島やクック諸島に入植し、ニュージーランドに進出したのも西暦1000年頃のことである。中国人は世界一周も可能な船を建造したが、遠洋航海には乗り出さなかったという。

 まだ世界的な文化は育っていなかった。貿易は次第に人々の考えに新風を吹き込んだ。例えば、スカンジナビア人は、現在のロシアに議会制度を伝えた。しかし、これは長くは続かなかったという。

 西暦1000年頃は日本は平安時代であった。日本では宮廷文学が花開き「源氏物語」や「枕草子」が記された。一方、北アメリカでは豆の栽培が広まり、ヨーロッパなどでは奴隷貿易が行われていた。

 インドが9個の数字と”ゼロ”を意味する記号を使った数学体系を創造したのも西暦1000年頃のことである。また、アラビア語の書物がラテン語に翻訳され、アスロラーベ(天体観測機)などの機器類の普及に貢献している。中国では地震計が登場し、イスラムの数学者で天文学者のイブン・アル・ヘイサムは大気による光屈折と天体との関係を研究していたという。

 環境面では人類は自然に大きな影響を与えるようになってきている。マヤ族やトトナック族など、中南米の民族は西暦1000年頃にカカオ豆でチョコレートを作っていた。一方、ハワイ島やイースター島に住み着いたポリネシア人たちは森林を焼き払って土地を利用するようになり、そのために多くの固有の動植物が絶滅への道を歩んだという。また、ヨーロッパでも金属を得るために木炭が多く使われるようになり森林伐採に拍車がかかったのである。そして、この頃の気候の変化がアフリカのサハラ周辺の広大な地域を砂漠に変えたという。

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2007年5月21日 (月)

西暦2000年到来の意味

西暦2000年到来にはどのような意味があるのだろうか。

 西暦というものは西洋の暦と認識されている。しかし、西暦を西洋の暦であるというほど、西洋の暦は一律ではない。

 キリストの生誕の年と推定された年を第1年とする西暦は、6世紀にローマの修道僧が考案した。そして、欧州の一部の国で採用されるようになったのは10世紀頃であるといわれている。しかしながら、そのときの西暦は現在のグレゴリオ暦ではなくユリウス暦であった。ユリウス暦はユリウス・カエサルが紀元前46年に導入した。この頃にローマ人が用いていた暦は太陰暦であった。1年が355日であり暦と季節のずれが生じていたのである。そこでユリウス・カエサルは太陰暦を1年を365.25日とする太陽暦であるユリウス暦に改暦したのである。このユリウス暦は、法王グレゴリウス13世によって改暦されるまで1627年間も使用された。

 そしてその後、上述のように法王グレゴリウス13世によって1582年にユリウス暦からグレゴリオ暦に改暦された。ユリウス暦は1年を365.25日としおり、130年に1日ずつずれてしまうので改暦をする必要が出てきたのである。ユリウス暦では季節がだんだんずれしまい、3月21日の春分の日になってもまだ寒いという状況が生まれた。季節と暦があわなくなってしまったのである。そこでグレゴレオ歴に改暦したのであるが、カトリックは1582年にすぐにグレゴリオ暦を取り入れたが、プロテスタントは取り入れず、1700年頃からやっとグレゴレオ歴を使用し始めた。この様に、イギリスやアメリカが西暦(グレゴリオ暦)を使用したのは、1752年(18世紀)からであった。

 ギリシャは1920年にグレゴリオ暦に改暦しており、20世紀に入ってからである。

 そういう意味で、18世紀までヨ-ロッパでは正月の時期も違っており、現在の西暦というものが西洋の暦であると考えるより、むしろ、グレゴリオ暦という太陽暦の新暦であると解釈した方が良いのである。

 20世紀末の現在でも暦というのは非常に多様である。ロシアの教会は現在もユリウス暦を使っている。したがって、ロシアの教会ではクリスマスを西暦(グレゴリオ歴)の1月に入ってから行っている。イラン暦(ジカラリ-歴)では春分の日が一年の始まりであり、エチオピアでは9月6日が新年になり、西暦(グレゴリオ暦)の7年遅れである。

 また、ユダヤ教徒は天地創造とされる紀元前3760年、一部のヒンズー教徒は暗黒時代の始まりとされる3102年、イスラム教徒はマホメットがメディナに移った紀元622年が暦の始まりとしている。この様に世界中には多様な暦があるのである。

 そして、イランのカレンダーには太陽暦のイラン暦、太陰暦のイスラム暦、並びに西暦が一緒に書かれている。断食などの宗教行事を除いて主な行事はイラン暦に従い、イランの人が西暦を利用することはほとんどないという。しかしながら、日本の年号を知らなくてもグローバルスタンダードとなりつつあるグレゴリオ暦を知らないわけではないのである。

 一方、1日のかわり目も、グリニッジ天文台の西経0度線を基準にした日付変更線を境に午前0時に日付が変わるというのが決まっているが、イスラムでは夕方が 1日の始まりであり、ユダヤ暦では午後6時が1日の始まりとなっている。

 日本においても午前0時に日付が変わると考えるようになったのは明治以降である。江戸時代は夜明けが一日の始まりであると考えるのが一般的であった。

 このように、西暦を単純に西洋の暦と狭く解釈することには問題が多いといえる。

 それでは西暦はキリスト教の暦であるといえるだろうか。確かに、西暦という概念はアンノ・ドミニ(anno domini、主の年から)というキリスト紀元に由来している。しかし、キリストが生誕したのは紀元前4年であり計算違いであることが後に明らかになっている。

 また、ヨーロッパでキリスト教が国教化される頃の暦にはオリンピアド紀元(BC776年)やローマ建国紀元(BC753年)などがあった。キリスト紀元は525年にローマ在住のスキティアの僧、ディオニシウス・エクシグウスによって復活祭の暦を作成する際に提案された。しかしながら、キリスト紀元は17世紀中旬に広まったのである。フランスのイエズス会のドメニクス・ペタヴィウスが「時間原則について」という著書で提案したのがきっかけとなった。そして、西暦(グレゴリオ暦)はカトリックにはすぐに受け入れられたが、プロテスタントからは拒絶され続けたのである。

 したがって、一概に西暦をキリスト教の暦であると決めることもできないことがわかる。 西暦(グレゴリオ暦)は暦として現代人に利用しやすいグローバルスタンダードなのである。そのグローバルスタンダードの暦が2000年という区切りの数字になると考えるのが自然である。西暦は確かに西洋の暦であったが、地球と月と太陽の関係をうまくとらえた地球の暦となりつつあるのである。西暦2000年を目前にして、人類は共通の暦を使用するようになった。地球上の個性ある地域の暦を大切に守り育てると同時に、グローバルスタンダードとしての地球暦である西暦は人類共通の財産であるといえるように思われる。

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