早稲田大学125周年記念イベント
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日本においても午前0時に日付が変わると考えるようになったのは明治以降である。
江戸時代は夜明けが一日の始まりであると考えるのが一般的であった。
このように、西暦を単純に西洋の暦と狭く解釈することには問題が多いといえる。
それでは西暦はキリスト教の暦であるといえるだろうか。
確かに、西暦という概念はアンノ・ドミニ(anno domini、主の年から)というキリスト紀元に由来している。
しかし、キリストが生誕したのは紀元前4年であり計算違いであることが後に明らかになっている。
また、ヨーロッパでキリスト教が国教化される頃の暦にはオリンピアド紀元(BC776年)やローマ建国紀元(BC753年)などがあった。
キリスト紀元は525年にローマ在住のスキティアの僧、ディオニシウス・エクシグウスによって復活祭の暦を作成する際に提案された。
しかしながら、キリスト紀元は17世紀中旬に広まったのである。
フランスのイエズス会のドメニクス・ペタヴィウスが「時間原則について」という著書で提案したのがきっかけとなった。
そして、西暦(グレゴリオ暦)はカトリックにはすぐに受け入れられたが、プロテスタントからは拒絶され続けたのである。
したがって、一概に西暦をキリスト教の暦であると決めることもできないことがわかる。
西暦(グレゴリオ暦)は暦として現代人に利用しやすいグローバルスタンダードなのである。
そのグローバルスタンダードの暦が2000年という区切りの数字になると考えるのが自然である。
西暦は確かに西洋の暦であったが、地球と月と太陽の関係をうまくとらえた地球の暦となりつつあるのである。
西暦2000年を目前にして、人類は共通の暦を使用するようになった。地球上の個性ある地域の暦を大切に守り育てると同時に、グローバルスタンダードとしての地球暦である西暦は人類共通の財産であるといえるように思われる。
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20世紀末の現在でも暦というのは非常に多様である。
ロシアの教会は現在もユリウス暦を使っている。したがって、ロシアの教会ではクリスマスを西暦(グレゴリオ歴)の1月に入ってから行っている。
イラン暦(ジカラリ-歴)では春分の日が一年の始まりであり、エチオピアでは9月6日が新年になり、西暦(グレゴリオ暦)の7年遅れである。
また、ユダヤ教徒は天地創造とされる紀元前3760年、一部のヒンズー教徒は暗黒時代の始まりとされる3102年、イスラム教徒はマホメットがメディナに移った紀元622年が暦の始まりとしている。
この様に世界中には多様な暦があるのである.
そして、イランのカレンダーには太陽暦のイラン暦、太陰暦のイスラム暦、並びに西暦が一緒に書かれている。
断食などの宗教行事を除いて主な行事はイラン暦に従い、イランの人が西暦を利用することはほとんどないという。
しかしながら、日本の年号を知らなくてもグローバルスタンダードとなりつつあるグレゴリオ暦を知らないわけではないのである。
一方、1日のかわり目も、グリニッジ天文台の西経0度線を基準にした日付変更線を境に午前0時に日付が変わるというのが決まっているが、イスラムでは夕方が 1日の始まりであり、ユダヤ暦では午後6時が1日の始まりとなっている。
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西暦2000年到来にはどのような意味があるのだろうか。
西暦というものは西洋の暦と認識されている。
しかし、西暦を西洋の暦であるというほど、西洋の暦は一律ではない。 キリストの生誕の年と推定された年を第1年とする西暦は、6世紀にローマの修道僧が考案した。
そして、欧州の一部の国で採用されるようになったのは10世紀頃であるといわれている。しかしながら、そのときの西暦は現在のグレゴリオ暦ではなくユリウス暦であった。
ユリウス暦はユリウス・カエサルが紀元前46年に導入した。
この頃にローマ人が用いていた暦は太陰暦であった。
1年が355日であり暦と季節のずれが生じていたのである。
そこでユリウス・カエサルは太陰暦を1年を365.25日とする太陽暦であるユリウス暦に改暦したのである。
このユリウス暦は、法王グレゴリウス13世によって改暦されるまで1627年間も使用された。
そしてその後、上述のように法王グレゴリウス13世によって1582年にユリウス暦からグレゴリオ暦に改暦された。
ユリウス暦は1年を365.25日としおり、130年に1日ずつずれてしまうので改暦をする必要が出てきたのである。
ユリウス暦では季節がだんだんずれしまい、3月21日の春分の日になってもまだ寒いという状況が生まれた。
季節と暦があわなくなってしまったのである。
そこでグレゴレオ歴に改暦したのであるが、カトリックは1582年にすぐにグレゴリオ暦を取り入れたが、プロテスタントは取り入れず、1700年頃からやっとグレゴレオ歴を使用し始めた。
この様に、イギリスやアメリカが西暦(グレゴリオ暦)を使用したのは、1752年(18世紀)からであった。
ギリシャは1920年にグレゴリオ暦に改暦しており、20世紀に入ってからである。
そういう意味で、18世紀までヨ-ロッパでは正月の時期も違っており、現在の西暦というものが西洋の暦であると考えるより、むしろ、グレゴリオ暦という太陽暦の新暦であると解釈した方が良いのである。
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一方日本では、前にも触れたが1901年に慶応義塾大学が「19世紀、20世紀の歓送迎会」を500人の規模で開催している。
1900年(明治33年)12月31日、まさに19世紀が終わって20世紀を迎えようとする夜、慶應義塾では学生主催の世紀送迎会がにぎやかに行われた。
参加者は約500名であった。そこでの送迎の辞は、「19世紀の文明は自然科学の勝利であったが、科学の進歩は貧富の不平等を起こした。
また、政治上思想上の奴隷を救うをもって始まった19世紀は経済上物質上の奴隷をつくるをもって終わった。
19世紀は絢爛たる文明の花を咲かせたが、これを培養して見事に結実せしめるのは実に20世紀に生きる我らの責務である」と述べている。
祝辞のあと晩餐に入った。
会場には歴史的風刺画が数十枚も掲げられて来会者の興味をそそった。
ナポレオン、黒船、日清戦争などが描かれていた。
12時近くになって一同は運動場に移った。
そこには、大かがり火がたかれ、カンテラが林立して昼を欺くほどの明るさであったという。
儒学者の夢や階級制度の弊害、蓄妾の醜態などが表された3面の風刺画をはじめ、福沢諭吉の寓意による風刺画などが掲げられていた。
12時になると学生が3つの風刺画に対して一斉射撃を行い、それと同時に火が点じられると焔があがって、19世紀の悪習が消えてなくなり、20センチュリーの文字がくっきりと浮かび上がったという。
最後に万歳三唱をして1901年1月1日午前0時20分に解散した。慶應義塾学生主催の「19世紀、20世紀の歓送迎会」は、このようにいかにも日本的な世紀越えイベントであった。
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西暦1900年を中心とした100年前の世紀越えはどのようなものであったのであろうか。
100年前には世紀末現象が起こっている。西暦1900年頃は実は非常に明るい時代であった。車や電気などが20世紀に普及するということがはっきりと予測され、20世紀は非常に良い時代なのだと、人々は未来に明るい展望をもっていた。
そして、平和で明るい時代は1914年の第1次世界大戦の勃発まで続いた。現在、世紀越え現象が起こっている20世紀末の日本とは比較にならない程、明るい時代であったのである。
そのような楽天的な世の中の風潮の中で一部の人々が20世紀には神への信仰などが失われ、非常に恐ろしい時代が訪れると考えたのである。
それが、世紀末現象である。
この世紀末現象はパリを中心に主にフランスで起こっている。
100年前の世紀越えには大規模なカウントダウンをベースとしたイベントはなかったといわれている。
そして、20世紀を提示したパリ万博が世紀越えイベントを代表する世紀のイベントであったといえる。
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20世紀初頭の世界人口は16億5000万人であった。国連推計によると20世紀末には約62億人になる見込みであるから、20世紀初頭の世界は現在の4分の1の人口規模であったのである。
また、日本の1901年(明治34年)の総人口も約4,440万人であり、1996年の約1億2,590万人と比べると約3分の1の人口規模であった。
そして、この頃の世界は電気、石油、並びに通信などの技術革命に沸いていた。蒸気機関車が電気機関車になり、ガソリンエンジンが実用化されていった。グラハム・ベルが発明した電話でニューヨークとシカゴ間の通話に成功したのもこの頃である。日本も欧米の科学技術の導入につとめ、近代化の道をひた走っていた。
19世紀末は「イエローナインティーズ」などと呼ばれ黄色がはやった。黄色は不安と反抗のシンボルでもあった。ゴッホは、黄金色のひまわりを描き、糸杉の上で輝く太陽を鮮やかなオレンジ色で彩った。ロートレックは「ムーラン・ルージュ」の踊り子たちをまぶしい黄色で飾ったのである。
現在日本で大流行のオペレッタが100年前の19世紀末のウィーンでウィンナ・ワルツと一体になって大流行していた。20世紀末の日本は当時のウィーンと似ているともいわれる。ウィーンではハプスブルク帝国の威光は衰え、1873年のウィーン万博が始まっる頃に株価も暴落し、小銭を貯めた多くの市民が没落していった。”バブル崩壊”にあえぐ庶民はワルツの踊りに救いを求め、オペレッタに過去の美しい夢を追ったという。
また、パリ万博が1900年に開催された。日本人の声の最古のレコードはこの時録音されたもので1900年のものである。「欧米漫遊の川上音二郎一座」が、「オッペケペーをお聞きに達しまする・・・」で始まる。奇異な異国情緒が大当たりして録音したといわれている。パリで川上一座が吹き込んだもので、日本人の声を収めたレコードで最古のものである。
1900年には米国が中国や英国などを抜き世界一の工業国となっている。19世紀初頭の1800年頃に世界の3分の1を占める工業生産額を誇った中国(清)は産業革命に乗り遅れ、1840年~1842年のアヘン戦争を境にして英国に抜かれ、続いて欧州列強及び米国に抜かれた。
そして、米国のラスベガスの夜はまだ闇であった。砂漠のオアシスに小さな農場と丸太小屋があっただけである。当時の住人は18人であるという1900年の国勢調査の記録が残っている。
19世紀は西洋文明が人類の未来にバラ色の夢を描いた産業主義の時代だったといわれている。20世紀にはその反省が台頭し資本主義の発展も植民地支配の上に成立していたにすぎないことに気づき始めていた。
一方、日本は欧米の科学技術の導入につとめ、近代化の道をひた走っていた。1901年には東洋一の規模の官営八幡製鉄所第1溶鉱炉にに火が入り操業されている。また、ヨーロッパ先進国で書き言葉と話し言葉が一致しているのに気づき、不言一致運動が進んだ。小学校教育の中に国語科ができた。1902年には日英同盟が結ばれた。また、八甲田山死の彷徨も1902年のことである。1903年には第5回内国産業博覧会が大阪・天王寺公園で開催された。海外18カ国の参加も見て、20世紀の幕開けを象徴する新製品が展示された。一番人気は電気冷蔵庫であったという。温度保持のため、一度に50人しか見学できずに行列ができた。夜になると各展示館はイルミネーションで飾られた。電飾をイルミネーションといったのはこのときが最初である。6,700個の電灯が使われ、5ヵ月間の会期中に530万人の人が入場した。
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今から1000年前の西暦1000年のミレニアムの到来はどのようなものであったのだろうか。
1000年前のミレニアムは、暦としての千年紀としての認識はなかった。キリスト教社会における千年王国の到来であった。
千年王国とは、「キリスト教の世界において終末にあたってキリストが再臨し、千年間統治すると信じられた王国」である。転じて正義と平和が支配する理想的世界や、ユ-トピア、黄金時代を指すこともある。
したがって、西暦1000年頃はその終末にあたった。キリスト教社会では終末感が漂ったのである。
ミレニアムの直前の990年代には西暦1000年に終末が来るという確信が世の中に広がっていたといわれている。
しかし、当時の記録はほとんどない。その限られた記録を残した人の一人に945年から1004年まで生きた修道院改革者のフルリ大修道院長がいる。フルリ院長は若い頃パリの大聖堂に集まった人々の前で紀元1000年が終わるやいなや反キリストが現れ、その後まもなく最後の審判が下り、この世が終わるという説教を聞いたという。しかし、フルリ院長はこの説教に異論を唱えている。フルリ院長は司教である。司教が迫り来るミレニアムについてこの世は終わらないと説教をすれば説得力がある。したがって、ミレニアムには終末に対する不安とそれに対する疑問が混在していたと考えられる。
そして、西暦1000年から数年経過すると最後の審判が起こらなかったいう安堵から多くの聖堂が改築されることになった。
また、キリスト教以外の文化圏では西暦1000年の到来にほとんど関心を示さなかった。地球には多様な文化が形成され、それぞれが独自の暦をもっていた。例えば、ユダヤ教徒は天地創造とされる紀元前3760年を暦の始まりとしていた。ヒンドゥー教徒の一部は暗黒時代の始まりとされる紀元前3102年、イスラム教徒はマホメットがメディナに移った紀元622年を暦の始まりとしていたのである。日本は年号を使っていた。この様に、キリスト教以外の文化圏は西暦1000年に特別な関心を払わなかった。
したがって、当然のことながらそれから1000年後の西暦2000年に地球規模でカウントダウンが企画されることなど想像もできなかったと思われるのである。
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地球の誕生は46億年前といわれている。その46億年前の1月1日の午前0時に地球が誕生したとして、それから現在までの出来事を1年間のカレンダーに仕立てたのが地球暦である。
地球暦では最初の生物が海に現れたのは5月であり、陸にあがったのは11月下旬のことである。12月の下旬に恐竜の全盛時代になる。その恐竜もクリスマスの日には絶滅して姿を消す。人類は大晦日の晩になってようやく姿を現す。
人類の最初の祖先といわれているのは1979年にエチオピアで発見された約400万年前の女性の化石人骨で身長1.2メートル体重26キロの「ルーシー」である。調査隊が好んでビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイヤモンズ」を歌ったことから「ルーシー」と名付けられた。この400万年前は氷河が地表を覆う時代であった。「ルーシー」は厳しい自然環境と戦っていたのである。そして、100万年前頃から人類はアフリカから各地へと広がっていった。80万年から70万年前に火を使用し始め、50万年前に原人が現れる。20万年前には旧人となり、約4万年前に人類の直接の祖先であるホモ・サピエンスが現れた。この時が地球暦の午後11時57分48秒頃である。
そして、1万年前に農業革命が起こる。世界最古の都市はヨルダン川流域のイェリコであり、この頃につくられた。都市が一般化したのはそれから5000年後であり今から5000年前である。そして、西暦1000年となった。西暦1000年は地球暦では大晦日の午後11時59分56秒をまわった頃である。そして、産業革命が起こったのは150年前である。地球暦では11時59分59秒をまわっている。
この様に、地球暦では1000年はわずか3秒あまりである。しかし、人類にとっては1000年はとても長い時間なのである。
さて、その西暦1000年頃はいったいどのような時代であったのだろうか。ナショナルジオグラフィック社の2000年特集などから西暦1000年頃の世の中を見てみよう。
西暦1000年頃の全世界の人口は2億5000万人であったという。当時の世界最大の都市は、スペインのコルドバであり、コルドバには45万人が居住していた。世界人口の増加率は0.1%で、5歳未満の子供の死亡率は5割にも達したという。
文化は世界各地にばらばらに存在していた。西暦1000年頃の主役は中国であった。
中国の統一王朝である宋が世界の3分の1近い人口を占めていたのである。地球上の最も豊かな場所で最も文明化されていたのは中国であった。中国の広大な領土で戦いが繰り広げられたり、画期的な新技術が考案され、その影響が遠くの地域にまで及んだという。中国では火薬や紙幣、活字、鋳鉄を製造する溶鉱炉などの様々な発明が相次いでいて、「開宝本草」などの書物が記されている。また、イスラム圏はイベリア半島から北インドまで広がっていた。一方、欧州は中世の暗黒時代であった。
西暦1000年頃は世界はまだあまり交流をしていなかった。欧州の多くの知識人は地球が平らでないことを知っていたが、あえて外洋に乗り出そうとはしなかったという。例外的に古代スカンジナビア人が現在のカナダ北東部に上陸している。一方、ポリネシア人たちはフィジー諸島やクック諸島に入植し、ニュージーランドに進出したのも西暦1000年頃のことである。中国人は世界一周も可能な船を建造したが、遠洋航海には乗り出さなかったという。
まだ世界的な文化は育っていなかった。貿易は次第に人々の考えに新風を吹き込んだ。例えば、スカンジナビア人は、現在のロシアに議会制度を伝えた。しかし、これは長くは続かなかったという。
西暦1000年頃は日本は平安時代であった。日本では宮廷文学が花開き「源氏物語」や「枕草子」が記された。一方、北アメリカでは豆の栽培が広まり、ヨーロッパなどでは奴隷貿易が行われていた。
インドが9個の数字と”ゼロ”を意味する記号を使った数学体系を創造したのも西暦1000年頃のことである。また、アラビア語の書物がラテン語に翻訳され、アスロラーベ(天体観測機)などの機器類の普及に貢献している。中国では地震計が登場し、イスラムの数学者で天文学者のイブン・アル・ヘイサムは大気による光屈折と天体との関係を研究していたという。
環境面では人類は自然に大きな影響を与えるようになってきている。マヤ族やトトナック族など、中南米の民族は西暦1000年頃にカカオ豆でチョコレートを作っていた。一方、ハワイ島やイースター島に住み着いたポリネシア人たちは森林を焼き払って土地を利用するようになり、そのために多くの固有の動植物が絶滅への道を歩んだという。また、ヨーロッパでも金属を得るために木炭が多く使われるようになり森林伐採に拍車がかかったのである。そして、この頃の気候の変化がアフリカのサハラ周辺の広大な地域を砂漠に変えたという。
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西暦2000年到来にはどのような意味があるのだろうか。
西暦というものは西洋の暦と認識されている。しかし、西暦を西洋の暦であるというほど、西洋の暦は一律ではない。
キリストの生誕の年と推定された年を第1年とする西暦は、6世紀にローマの修道僧が考案した。そして、欧州の一部の国で採用されるようになったのは10世紀頃であるといわれている。しかしながら、そのときの西暦は現在のグレゴリオ暦ではなくユリウス暦であった。ユリウス暦はユリウス・カエサルが紀元前46年に導入した。この頃にローマ人が用いていた暦は太陰暦であった。1年が355日であり暦と季節のずれが生じていたのである。そこでユリウス・カエサルは太陰暦を1年を365.25日とする太陽暦であるユリウス暦に改暦したのである。このユリウス暦は、法王グレゴリウス13世によって改暦されるまで1627年間も使用された。
そしてその後、上述のように法王グレゴリウス13世によって1582年にユリウス暦からグレゴリオ暦に改暦された。ユリウス暦は1年を365.25日としおり、130年に1日ずつずれてしまうので改暦をする必要が出てきたのである。ユリウス暦では季節がだんだんずれしまい、3月21日の春分の日になってもまだ寒いという状況が生まれた。季節と暦があわなくなってしまったのである。そこでグレゴレオ歴に改暦したのであるが、カトリックは1582年にすぐにグレゴリオ暦を取り入れたが、プロテスタントは取り入れず、1700年頃からやっとグレゴレオ歴を使用し始めた。この様に、イギリスやアメリカが西暦(グレゴリオ暦)を使用したのは、1752年(18世紀)からであった。
ギリシャは1920年にグレゴリオ暦に改暦しており、20世紀に入ってからである。
そういう意味で、18世紀までヨ-ロッパでは正月の時期も違っており、現在の西暦というものが西洋の暦であると考えるより、むしろ、グレゴリオ暦という太陽暦の新暦であると解釈した方が良いのである。
20世紀末の現在でも暦というのは非常に多様である。ロシアの教会は現在もユリウス暦を使っている。したがって、ロシアの教会ではクリスマスを西暦(グレゴリオ歴)の1月に入ってから行っている。イラン暦(ジカラリ-歴)では春分の日が一年の始まりであり、エチオピアでは9月6日が新年になり、西暦(グレゴリオ暦)の7年遅れである。
また、ユダヤ教徒は天地創造とされる紀元前3760年、一部のヒンズー教徒は暗黒時代の始まりとされる3102年、イスラム教徒はマホメットがメディナに移った紀元622年が暦の始まりとしている。この様に世界中には多様な暦があるのである。
そして、イランのカレンダーには太陽暦のイラン暦、太陰暦のイスラム暦、並びに西暦が一緒に書かれている。断食などの宗教行事を除いて主な行事はイラン暦に従い、イランの人が西暦を利用することはほとんどないという。しかしながら、日本の年号を知らなくてもグローバルスタンダードとなりつつあるグレゴリオ暦を知らないわけではないのである。
一方、1日のかわり目も、グリニッジ天文台の西経0度線を基準にした日付変更線を境に午前0時に日付が変わるというのが決まっているが、イスラムでは夕方が 1日の始まりであり、ユダヤ暦では午後6時が1日の始まりとなっている。
日本においても午前0時に日付が変わると考えるようになったのは明治以降である。江戸時代は夜明けが一日の始まりであると考えるのが一般的であった。
このように、西暦を単純に西洋の暦と狭く解釈することには問題が多いといえる。
それでは西暦はキリスト教の暦であるといえるだろうか。確かに、西暦という概念はアンノ・ドミニ(anno domini、主の年から)というキリスト紀元に由来している。しかし、キリストが生誕したのは紀元前4年であり計算違いであることが後に明らかになっている。
また、ヨーロッパでキリスト教が国教化される頃の暦にはオリンピアド紀元(BC776年)やローマ建国紀元(BC753年)などがあった。キリスト紀元は525年にローマ在住のスキティアの僧、ディオニシウス・エクシグウスによって復活祭の暦を作成する際に提案された。しかしながら、キリスト紀元は17世紀中旬に広まったのである。フランスのイエズス会のドメニクス・ペタヴィウスが「時間原則について」という著書で提案したのがきっかけとなった。そして、西暦(グレゴリオ暦)はカトリックにはすぐに受け入れられたが、プロテスタントからは拒絶され続けたのである。
したがって、一概に西暦をキリスト教の暦であると決めることもできないことがわかる。 西暦(グレゴリオ暦)は暦として現代人に利用しやすいグローバルスタンダードなのである。そのグローバルスタンダードの暦が2000年という区切りの数字になると考えるのが自然である。西暦は確かに西洋の暦であったが、地球と月と太陽の関係をうまくとらえた地球の暦となりつつあるのである。西暦2000年を目前にして、人類は共通の暦を使用するようになった。地球上の個性ある地域の暦を大切に守り育てると同時に、グローバルスタンダードとしての地球暦である西暦は人類共通の財産であるといえるように思われる。
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日本人にとって西暦2000年を祝うことはどのような意味を持っているのであろうか。西暦と日本人の関係はどのようなものであろうか。
西暦というものは西洋の暦であるために日本人にはピンとこないという人も多い。これは当然のことと考えられる。なぜならば、現在の日本では公式には西暦を使うことが認められていないのである。現在の日本で公認されている紀年法は年号(元号の通称)と神武天応即位紀元だけである。神武天皇即位紀元は今でも法的には生きている。この神武天皇の即位紀元から660年を引くと西暦になるという形になっており、あくまでも西暦の使用は認められてはいないのである。
したがって、元号法に基づいて公式文書には必ず年号を用いなければならない。例えば、婚姻届などに西暦を書いて提出しても年号に訂正されてしまうのである。お役所の関係では日本史の教科書や郵便局等の自動消印機などが西暦になっているだけである。
年号とは、その君主の在位の期間を象徴するものとして年につけた名称である。日本の年号の歴史は古く、西暦645年の大化から始まっている。ちなみに、1代1元に定められたのは明治以降である。現在、年号を使っている国は世界でも朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と日本だけである。北朝鮮が金日成主席が誕生した1912年を元年にチュチュ(主体)年号を制定するまでは日本だけであった。
したがって、日本人にとって西暦が潜在的にバタ臭い感じがするのではないかと思われる。しかし、現在の日本では前述のように世紀を意識した様々な世紀越え現象が見られる。そして、世紀は日本文化として独自のスタイルを持ち始めているのである。
そこで、西暦と日本人の関係について振り返ってみよう。
宣教師がキリシタンの暦として使っていたのが西洋の暦と日本人との出会いであるといわれている。しかしながら、明治時代に入るまでは日本人は年号だけしか使っていなかった。したがって、100年を超える長い期間を計る尺度がなかった。特に鎌倉時代などは年号が毎年のように変わったため年号があてにならず、庶民は干支を使っていたという。
その後、江戸時代の1794年閏11月の11日、大槻玄沢は家塾に蘭学者を召集し、新元会と称して初めて西洋の新年を祝うオランダ正月の宴を開いた。その日は西洋の暦の1795年1月1日にあたっていたのである。それ以後、1837年までオランダ正月の宴は開かれた。
そして、幕末になると西洋の暦に大きな影響を受けるようになる。幕末には、神武天皇即位より○○年という記述が出始めているのである。その後、明治に入り1872年(明治5年)11月15日に年号の長い期間を計ることが出来ないという不便さを克服するために神武天皇即位紀元というものを制定した。当時の政府部内では年号を廃止して紀元だけにするつもりであったが、結局紀元を正式、年号を略式として併用することになった。
1940年(昭和15年)は皇紀2600年であったが、この時に神武天皇即位2600年祭として祝賀式典などが行われた。オリンピックや万博の計画もあったが開催はされなかった。
その後、1898年(明治31年)に勅令が出される。その勅令には「1900年(明治33年)に欧米諸国のグレゴリオ暦では閏を省略するのに対し、わが国の太陽暦ではユリウス暦と同じように閏を置くことになっており、3月1日以降彼我の日付に1日の差を生じることを避けるため」とある。そして、その勅令が1900年3月1日に発布された。それ以降、皇紀から660年を減じて西暦に直して使用し始めて行く。
このように1900年(明治33年)の19世紀最後の年に、庶民が西暦を初めて体験することになった。そして、次の年の1901年、20世紀の最初の年(明治34年)に慶応大学で「19世紀、20世紀の歓送迎会」を開催し、1901年には20世紀という言葉が流行した。
西暦は大変便利であり、昭和から平成になってから西暦の日常化が加速している。平成何年かをすぐに答えられない人が増えている。
例えば、西暦(グレゴリオ歴)2000年を年号でいうと平成12年、昭和75年、大正89年、明治133年などとなる。また、西暦2100年は平成112年である。平成12年を除くいずれの年号も実際は使用されないものである。
小渕総理の施政方針演説でも1999年度予算といっており平成11年度予算とはいわなかった。小渕総理が官房長官の時、元号を「平成」と発表したことを考えると、西暦が日本人にもいかに身近なものになってきているかがわかる。
新聞の発行日なども西暦を使っており、元号は申しわけ程度に小さく括弧で記載されているのが実態になっている。
したがって、国際化に対応したグローバルスタンダードとしての暦である太陽暦の新暦、グレゴレオ歴(西暦)の使用を認めることが重要になってきていると思われる。日本人が現在最も多用している暦はグレゴリオ暦(西暦)なのである。西洋の紀元であると単純に判断せずに年号と合わせて西暦の併用を認める時期が来ているのではないだろうか。西暦2000年をきっかけとして西暦を公式文書で使用できるように法改正してはどうだろうか。かつて尺貫法をメートル法に変えたように、西暦2000年を契機に、西暦の使用を認めることが望ましいように思われる。
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建設省国土地理院が人工衛星を使った世界基準の測地系に合わせて緯度・経度の位置を見直す準備をしているのをご存じだろうか。
測量法は1949年に制定された。国土地理院は明治時代から使っている日本測地系による測量を採用している。現在の基準は東京・麻布台の「経緯度原点」と東京・永田町の「水準原点」となっている。しかし、米国やカナダなど十数国で世界基準が採用されており、日本も世界基準を採用する必要が生じている。、
そして、世界基準に合わせると緯度と経度がそれぞれ12秒ずつずれる。日本列島体が北西へ約450メートル移動し、ゆがみの補正も実施される。
このため、東経135度の子午線上に日本標準時を示す大時計がある兵庫県明石市をはじめ、「子午線上市町村交流会」を組織する5市11町は、建物やモニュメントと世界基準とのずれが生じることに困惑している。
明石市立天文科学館は阪神淡路大震災で崩壊した建物を復旧し1998年3月15日に再オープンしたばかりであり、子午線上で最南端の兵庫県東浦町も1998年3月に東経135度の位置にモニュメントを建てたばかりである。
測量法の改正案は1999年に国会に提出され、今後10年位をかけながら見直し作業がすすめられる。
一方、グリニッジ天文台も生き残りが瀬戸際となっているという。グリニッジ天文台は1675年にロンドン郊外に設立され、世界の時刻の基準になるグリニッジ標準時(GMT)を生んだ約300年の伝統を持つ天文学会の名門である。しかし、資金不足などで世界的レベルの宇宙研究や観測機器の開発などを続けていくことが難しくなっている。約100人の天文台スタッフが10人程度に減らされて小さな研究所としてケンブリッジ大学の傘下に入る可能性があるという。
2000年の到来を目前にして、グリニッジ天文台も子午線上のまちも大きな転機にたたされているのである。グリニッジ天文台がケンブリッジに移転してから旧天文台も博物館になっている。はたして、西暦2100年にもグリニッジ天文台が世界の時刻の基準となっているのだろうか。
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昼と夜は地球が西から東へ自転しているために生じる。しがたって、夜明けは地球上で東にある土地ほど早い。そこで、地球上の各地点に、それぞれ固有の時刻というものがあると考えることができる。この固有の時刻を地方時という。南北に並んだ経度が等しい土地に対する地方時は等しく、経度の差が15度で1時間の時差があるのである。
ちなみに、日本で一番早い地方時は南鳥島、次に北方領土、そして根室市である。21世紀に一番近い街、根室市は日本で一番地方時が早い最東端の街である。
そして、ある地域内で経線を選定し、この経線の地方平均時をこの地域内で共通に使うことにした場合、この経線の地方平均時をこの地域での標準時という。日本では明石市を通る東経135度上の地方平均時を日本の標準時としている。
一方、日の出の時刻は地方時とは別のものである。例えば、初日の出の時刻をみると、千葉県銚子市は北海道根室市よりも西にあり、地方時が遅いにもかかわらず、根室市よりも早く初日の出が見られる。それは、初日の出は南東より北西に向かって昇ることによる。初日の出は緯度と経度、並びに標高によって決まる。したがって、小笠原諸島の南鳥島が5時27分と最も早く、父島が6時20分、富士山頂が6時42分、千葉県銚子市の犬吠崎が6時46分、北海道根室市納沙布岬が6時49分、そして、最後の日の出が沖縄県与那国島で7時32分となる。
したがって、本土では地方時より初日の出の時刻の差の方が少ない。地方時では約1時間の差がある根室市と長崎市であるが、根室市の初日の出が6時50分であり、長崎市の初日の出が7時23分となっている。その差はわずか33分である。初日の出が経度だけではなく緯度と標高の影響を強く受けることがわかる。ちなみに、那覇市の日の出は7時17分であり、福岡市の7時23分より早いのである。
ただし、初日の出の時刻は実際に日の出が見られる時刻とは異なる。実際の日の出は雲などによって遅れ、天候の影響を受けやすいのである。したがって、同じ地点でも初日の出が実際に見られる時刻は年によって異なる。
前述したように、人間の自然な感覚では日の出が一日の始まりとして考える傾向がある。地方時と初日の出の時刻のどちらを重視するかは意見の分かれるところだろう。
海外でもニュージーランドとトンガが標準時と初日の出の時刻で争っている。世界で一番早い2000年の「初日の出」が見られるニュージーランドのチャタム諸島は、日本時間の12月31日午後7時15分に新年を迎える。
トンガがサマータイムを使えば、1時間早くなり12月31日午後7時に新年を迎えることになり逆転する。しかし、初日の出は緯度と経度、並びに標高によって決まるため陸から最も早く初日の出が見られるのはニュージーランドのチャタム諸島となる。
この様に、2000年や21世紀の始まりが早いのはどこかは人間が決めたルールによって変化するのである。
ちなみに、日本では地方時も初日の出も早いのは南鳥島であるが南鳥島への一般人の上陸は許可されていない。そこで、船上から初日の出を見るツアーの企画が練られている。 陸地から観光をかねて楽しめる場所は、地方時が最も早い最東端の根室市や、初日の出が富士山頂に次いで早い千葉県銚子市である。
そして、地方時も初日の出も日没も最も遅いのは南国パラダイスの沖縄県与那国島である。20世紀に日本で最後に沈む夕日を見たい人には与那国島がおすすめである。
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昼と夜からなる一日の経過は生活をしていて自然にわかる明らかな自然現象である。しかし、地球上の各地で日付を使うことになると問題が生じる。
地球は自転をしており地球上では東へ行くほど早く夜が明ける。しかし、地球は丸いので地球上には最東点が存在しない。
しがたって、各国が最東点を決める協定を結ぶ必要が生じる。そこで、同一経度上の地点は同一の自然時(地方時)をもっていることから、最東点を連ねて一本の経度線となることに着目した。この協定経度線が日付変更線である。この線の西側から地球の一日が始まり、この線の東側で一日が終わることになったのである。
この日付変更線を決めるにあたっては、ほんの僅か動いただけで日付が違う不便をさけるために、日付変更線はなるべく人の住んでいない地域に設定することとした。
旧グリニッジ天文台を通る経線を0度としたとき、東経・西経ともに180度の経線は、ベーリング海峡付近に始まりほとんどが無人の太平洋を通過していることから日付変更線をこの経線を基準にし、行政区画を考慮して少し屈曲させたのである。
太平洋を航海するとき、東経・西経180度の経線通過で日付を変更する習慣は19世紀初頭にはほとんどの国の習慣になっていた。
しかし、国際条約として成立したのは1884年の万国子午線会議の決議である。
そしてそれから100年以上のち、2000年の到来がせまった時、世界でどこが一番早く2000年を迎えるのかを日付変更線に近いキリバス、トンガ、フィジーなどの太平洋の国々が先陣争いをすることとなった。
キリバスは東西約4000キロメートルの島嶼国家である。現在、国の中央を走っている日付変更線を東側に変更することで2000年の一番乗りをねらっている。日付変更線は赤道のやや南で東にずれている。そこで、2000年の到来を契機に国内の日付を統一する意味もあり、キリバス政府は日付変更線を東側に移すことを宣言した。トンガより遙かに東に突き出て、2000年を最初に迎える国として観光客誘致に乗り出している。日付変更線には公式協定はなく、この宣言を否定する理由は何もないのである。2000年を一番早く迎える国として国際的に認知されつつある。
一方、トンガはサマータイムの導入を検討している。ニュージーランドのチャタム諸島は9月下旬から3月上旬までサマータイムであるが、トンガがサマータイムを導入すればチャタム諸島より早く2000年を迎えられることになる。カヌーのレースやビーチでのキャンプファイアーなど、1999年のクリスマスから様々なイベントを継続的に打ち出す予定で、観光振興の起爆剤にしようと意気込んでいる。
フィジーも世界で最初に西暦2000年を迎えるのはわが国であると主張している。日付変更線の大部分と重なる東経180度が領内の島の一つを通過していることがその主張の根拠となっている。フィジーもサマータイムを導入して時計の針を1時間進めるとしている。
日付変更線は人間が作った概念である。どの国が一番早く2000年になるのかを決めることは難しい。
ちなみに、英国はグリニッジ天文台があることから、英国が一番最初に2000年を迎えるともいっているという。
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1日の始まりはいつであろうか。これには3つの考え方がある。
一つ目は、現在の時刻制度を尊重するという立場からのもので、午前0時を過ぎた時である。現代に生きる我々は午前0時に一日が始まると考えている。江戸時代にはこれを天の昼夜と呼んでいた。
2つ目は夜明けである。朝の目覚めをもって一日の始まりを実感として受け止めているのである。昔の人にとっては昼と夜は別のものであった。日の出より始まり日没に終わる昼間を人の一日と考えた。一方、日没から日の出にいたる夜間は神の一日と考えるものである。神社の祭礼は夕方から宵宮として始まり夜間に儀式を終える。翌日の夜明けと共に人の一日が始まると、人の神をあがめる行事が繰り広げられるのはそのためであるという説である。したがって、また夜が来ると人の神への崇拝行動は終わり、神を天に送り返す行動が行われて祭りが終わるのである。江戸時代にはこれを人の昼夜と呼んでいた。
明治にいたるまではこの様に昼を人の一日と考えていたので、昼の長さが季節とともに変動する不定時法が使われていた。一日の始点を夜明けと考えることは自然な感覚であるともいえる。
3つ目は日没である。その根拠となるものにアシタ、ユウベという言葉がある。現在はアシタといえば明日であり翌日を意味する。しかし、もともとは朝を意味していた。また、ユウベも現在は昨夜のことを意味しているが、もともとは夜を意味していた。したがって、アシタとユウベというのは一日の朝と夜を意味した言葉であった。つまり、ユウベからアシタが一日のサイクルであると考えられるのである。このような日の区分は平安時代の物語などに多く見られる。そこでは、今夜と書いてコヨイと読み、明けた朝になってから前夜を指していっているのである。
この様に、一日の始まりには3つの考え方があるのである。そして、3つ目の日没が一日の始まりであるとすると大晦日の夜から一年が始まることになる。もともと正月は年中行事の中でも最大の祭りであった。それだけにその準備は重要であったが、準備は日没までに全て終え、祭りそのものは大晦日の夜から元旦の朝にかけて行われた。大晦日の夜に家族が一同に会して寝ずに過ごすことが多い。これは祭りの重要な要素である「おこもり」の影響であると考えられる。また、大晦日の夜の食膳を新年最初の食事とし、「お節料理」はもともと大晦日の夜の食膳である。したがって、古くは大晦日の夜こそ一年の始まりであり年神祭の重要な時であったのである。
日本では標準時の午前0時に同時に一日が始まる。しかし、地方時では南鳥島と北方領土に続いて根室市から一日が始まる。日の出では南鳥島や父島などに続いて銚子市から一日が始まる。日没では南鳥島と北方領土に続いて根室市からはじまるとなるのである。
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春夏秋冬という季節の循環は1太陽年で完了する。しかし、1太陽年の始まりである年初をどこにおいても自由である。
古代ローマでは、現在の3月が年初の月であった。そして、閏日は年末に置いた。2月に閏日を置くのはその名残である。3月が年初であった名残は第7の月を意味するセプテンバーが9月であり、第8の月を意味するオクトーバーが10月であることからもわかる。
ヨーロッパ各国間でも17世紀頃までは年初の月日が違っていた。例えば、イタリアでは18世紀までベネチアは3月1日、ピサは3月25日、フィレンツェは3月26日が年初であった。イギリスでは、12月25日(クリスマス年初)を採用していたが、14世紀に3月25日(受胎告知年初)に変更され、1752年にグレゴリオ暦(太陽暦の新暦、日本の西暦)を受け入れた法令が発布されたとき、現在の1月1日にしている。
中国で発達し日本で受容した太陰太陽暦は、農耕用であったので二十四節気の立春を年初と考えていた。
そして、現在の日本では1月1日から始まり12月31日に終わる一年を暦年と唱えている。したがって、私たちは年初は1月1日であると考えているが、会計年度や学校などは4月1日に始まる。ちなみに、アメリカでは7月1日に始まる。
このように、年初は本来どこにおいてもよい。グレゴレオ歴が1月1日においているだけである。そして、このグレゴリオ暦はもちろん日本で西暦と呼ばれている暦である。
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暦というものは、季節の推移や循環を把握するための技術である。食物の自然採取や農耕において、季節の推移や循環について把握ができなければ、人間は生きていくことさえ困難となる。
暦の語源は日読み(かよみ)や来経数(けよみ)であるといわれ、暦というものは現在を認識し未来に属する季節の循環を予知するために開発された技術であることは間違いない。したがって、暦の主な目的は予定を立てることにあったと考えられる。
英国のストーンヘンジや日本の縄文時代の環状列石も暦のためにつくられたのではないかといわれている。太陽と月の動きを観測していたと推定されるのである。
季節というものは自然界の変化である。そして、その季節を把握するには、草木の栄枯を観察して推測する方法がある。しかし、自然界の様子は年によって違いがある。そのために、季節を正確に知るには空に見える太陽と月と星の様子と季節との関係を調べる必要があるのである。
そして、季節は太陽の南中高度の変化によって生まれることがわかったと思われるのである。ちなみに、南中高度の変化周期は365.2422日(365日5時28分46秒)である。そしてこれを一太陽年という。
一方、一太陽年の365日は日常必要とする数字よりはるかに多い。そこで日常生活では別の方法で日を数える必要があった。
そこで、月の満ち欠けの回数を数えることで季節の推移循環を把握しようとした。これが、太陰太陽暦の始まりであるといわれる。太陰太陽暦では1年で11日、3年で33日季節とのずれが生じる。そこで3年に1回閏月を年末に置いた。この閏月の入る年が閏年であった。
月の満ち欠けの周期は29.53059日である。この周期を朔望月(さくぼうげつ)というが、これを12倍すると354.4日となる。そして、これに11日を加えると一太陽年の長さとなるのである。
このように、人類は季節の推移や循環を知るために太陽と月などを利用している。時の経過を認識するには太陽と月が欠かせないのである。
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祝うべきは2000年か2001年かということがマスコミなどの話題となるようになって論議されています。暦としては21世紀のスタートや第3ミレニアムのスタートは2001年です。西暦ゼロ年がないために、1年から百年が1世紀であり、1年から1000年が第1ミレニアムとなるのです。ブリティッシュナショナル・ヘリテージ事務局も2001年1月1日をもって第3ミレニアムが始まるとしており、英国のグリニッジ天文台も21世紀は2001年からであるとしています。
一方、1990年代のスタートは1990年であり1991年ではありません。したがって2000年代のスタートは2000年であって2001年ではないことになります。
そして、ゼロには始まりの意職があります。「ゼロから始める」などともいい、感覚的には2000年は最後というよりも始まりです。
中国では2000年からという意見が強く「わが国は2000年にニュージーランド、日本などに続いて五番目に21世紀に入る」と主張した時期がありました。
また、世界保健機関は2000年1月1日午前0時生まれの赤ちゃんを世紀の赤ちゃんと命名すると発表しているのです。
ところで、このような「世紀の論争」はある意味ではばかげた論争であるともいえます。1世紀を完成するためには百年が必要です。1900年から1999年まではもちろん一世紀です。しかし、それを20世紀と呼ぶのは正しくありません。20世紀は1901年1月1日から始まり2000年12月31日に終わるのです。
しかし、このような簡単な計算に基づく明瞭な事実をどこかおかしいと強く感じている人も多いのも事実です。
この「世紀の論争」は、カミール・フラマリオン氏によれば少なくとも1599年から繰り返されてきました。
以下の文章は1799年のロンドンタイムズの社説です。
「われわれは今世紀がいつ終わるのかということについてのすべての手紙を拒否し議論を拒むものである。その理由はその議論は人々の注意を引くものとしてはもっともばかげたものであるからである。われわれはそれが今までにかくも問題にされるということに驚きを禁じ得ない。なぜなら、それは自明の理であるからである。99が100であるということが証明されない限り、今世紀は1801年1月1日まで終わらないのである。それは愚かで幼稚な議論であり、われわれの見解と逆の意見を持つ人々の知能の低さを世に知らしめるだけである」。
そして、それから百年後の19世紀から20世紀への移行でも、ドイツ皇帝のウィルヘルム二世は1900年を20世紀の始まりと宣言し、英国と世紀の論争を展開しました。
そのようなばかげた論争に対して、「科学アメリカ」1900年1月13日号は哲学的なトーンで「それは尊重するに値する過ちであり、長く続き、たぶん消えることのない問題である」といっています。
そして、1900年1月にロンドンタイムスに寄せられた世紀の論争に関する投書を調べたホッブハウス男爵は、このばかげた論争が2000年の始まりにも再発することを見抜いていたのです。
ところで、このばかげた論争を世紀越えイベントの意義と照らし合わせて見てみましょう。世紀越えイベントはカウントダウンだけをやる単なるお祭り騒ぎではありません。カウントダウンは世紀越えイベントのシンボルであり非常に重要です。
しかし、いかに連続的につながっている時間をとらえて、意義のある世紀越えイベントを展開していくかが重要なのです。
したがって、区切りが二つあってもよいと考えられます。それぞれ、新しい世紀を迎えるために必要な区切りであるとも考えられるのです。
カウントダウンのニーズは「ピース2000倶楽部」のアンケート調査でも2000年派と2001年派の二つがあります。したがって、カウントダウンは二回というふうに考えるのが自然です。
確かに世紀の変わり目に意識の転換をしたい、21世紀に変わった時にこれからが21世紀だという区切りをつけたいという感情があるかと思います。しかし、世紀越えイベントの意義を考えると、あまり細かい区切りにとらわれるより、大きく「世紀越え」の中心となる期間を1999年から2001年としてとらえ、大きな世紀の架け橋を架け、むしろそのプロセスを大事にした方が良いと考えられます。
例えば19世紀末のパリ万博は、20世紀に向けた世紀越えイベントでした。パリ万博でも大論争の末、結局19世紀をしめくくる万国博として開催されました。しかしながら、パリ万博は20世紀には車や電気が普及することを提示し、二十世紀のライフスタイルを示した革新的なイベントであった。世紀のカウントダウンをどちらに打つかというばかげた論争を乗り越えた世紀越えイベントであったのです。歴史的に見ると1900年のパリ万博から世界は20世紀に入ったといえます。
2000年か2001年かといった些細なことにこだわるのではなく、20世紀を総括し21世紀のあり方を考えることが重要であると思われます。
ピース2000倶楽部では「2000年の歴史的瞬間まで」と「21世紀の歴史的瞬間まで」の二つのカウントダウンを1996年から開始しています。銚子市、愛知県の商店街、根室市なども二つのカウントダウンを行っています。
また、米ハーバード大のスティーブン・グールド教授は、著書『千年期を問う』のなかで、次の千年期の始まりは2000年か2001年かを論じています。
そこでは、「千年という周期は何の科学的根拠もなく、私たちが十進法を使っているからでしかない。人々が2000年を新しい時代の始まりとして祝いたいなら、そうしていけない理由はない。2000年でも2001年でもどちらでも自由である。自分が創り出したものにこんなに興奮するところに、人間の本性や弱点が見えて興味深い」と述べています。同教授は『進化論の構造』を2000年に出版し、1974年以来ナチュラル・ヒストリー誌に連載してきたエッセーは2001年1月に終止符を打つ計画です。
確かに、2000年か2001年かといった小さなことに興奮するところに人間の弱さがあるのです。2000年という区切りの年をきっかけとして、自分、家族、学校、会社、人類、ならびに地球などについて考え、確認し、さらにはそれらの関係を調整する、チューニングの場としてとらえることこそ重要ではないでしょうか。
ところで、世紀越えカウントダウンの日数を数えるときに難しい問題があるのはご存じでしょうか。1999年12月31日をあと1日とするベきかどうかです。ゼロの概念を導入すれば、1999年12月31日はあと0日と何時間となります。そして、2000年1月1日は第1日目ではなく第0日目と何時間となります。
しかし、日付だけで表す場合12月31日にあと0日となり1月1日に第0日目といわなければならなくなります。日付だけで表す場合はあと1日といいたくなるのが人情です。
2000年500日前の世紀越えイベントを1998年8月19日に開催しましたが、これは1999年12月31日をあと1日として計算しました。あと0日とした方がよいのではないかという意見もありましたが、世の中と計算がずれるのを避けたのです。
21世紀の1000日前も1998年4月7日でしたが、これも2000年12月31日をあと1日としての計算です。
ところで年齢における「ゼロ歳」は戦後アメリカから入って来ました。0歳の赤ちゃんも生後何カ月といわなければ一年間経過するまではいつまでたっても0歳であり、成長を数字で表現できなくなってしまいます。一カ月未満の場合も生後何日ということが必要となります。時が少しでも経過すればゼロとしたくないのが人間の感性なのです。
そして、それが二〇〇〇年が二〇〇〇年代の幕開けであると主張する人が多いこととも関係しています。2001年は2000年というゼロの年から一年が経過した年なのです。落ち着いた未来のイメージがあり、子供でいうと一歳であるといえます。21世紀の始まりは2001年からですが、新しい一世紀は2000年から始まるという人が多いのもうなずけます。
いずれにしても、1999年12月31日をあと0日と何時間といわない限りは2000年は20世紀に属することになります。2000年を新しい時代の幕開けと考えたい人は、勇気を出して2000年1月1日に「第0日目に突入しました!」と叫ぶことになるかもしれなません。そのことは、西暦2000年を周年イベントを開催する年として位置づけることで説明がつきます。周年イベントは、生誕100年、没後1000年、終戦50年、創立100年、結婚10年など、通常最後にゼロのつく年に行っているからです。生誕101年、没後1001年、終戦51年、創立101年、結婚11年に周年イベントを開催することはないのです。
また、数字の魔力ということでも説明がつきます。2000年は2のつく最初の年であり、ゼロが三つも並ぶ年です。例えば、西洋の七信仰や中国の北斗七星、ならびに日本の七福神など、7は福を呼ぶ不思議な数字であり、パチンコでも777が並ぶと福がきます。平成9年9月9日に多くのイベントが開催され、平成10年10月10日にも麻布十番商店街などが商店街イベントを開催し、平成11年11月11日にいたっては大騒ぎとなりました。
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日本の年末年始はクリスマス、お正月、忘年会、ならびに新年会などと大騒ぎです。日本ではクリスマスやバレンタインデー、ならびにハローウィンなどの多くの祭礼を受け入れる文化を持っています。クリスマスもその一つです。
このクリスマスを華やかなお祭りとして祝うのはプロテスタントの国であり、世界で一番華やかなクリスマスはニューヨークであるといわれています。アメリカではクリスマスセールが大盛況です。
一方、カトリックではクリスマスは重要な儀式であり、宗教的なミサはあっても世俗的な盛り上がりには欠けています。クリスマスは紛れもなく民衆の生活に根づいた宗教行事なのです。
そして日本はジングルベルとパーティーで盛り上がり、バブルの時期にはホテルもカップルで満員となりました。現在も、ブティックホテルに行列ができています。シングルにとってはクリスマスを誰と過ごすかが重要な関心事となり、ファミリーは今日はクリスマスですからと仕事を早く切り上げます。クリスマスを一緒に過ごせば、彼氏と彼女は本命ともいわれます。お正月よりクリスマスが好きな人に理由をたずねると「友達が集まってパーティーができる」「おせちよりケーキの方がいい」「ツリーやリースなどを飾り、クリスマスの方がかわいい」などの答えが返ってきます。クリスマスはおしゃれで洋風です。人気アーティストもクリスマスソングを次々と発表し、ヒット曲となっています。
一方、お正月は和風です。大正大学の調査でも、自分が日本人であることを意識するときは「お正月」がトップとなっています。しかしながら、人気アーティストのお正月ソングなどはほとんど見られません。伝統的な「もういくつねるとお正月……」などがあるだけです。
それもそのはず、日本では古くは正月は一年のはじめとして年中行事の中でも最も重要な折り目の日でした。暦法が採用される以前は春のはじめをもって一年のはじめとしていました。今の暦でいうと立春にあたる時期です。立春の前日を節分や年越というのはそのためです。年賀状に迎春などと書くのはこうした名残りでもあります。このように、正月に生物が躍動する春を迎え、生命力の更新を喜び祝ったのです。一年の年は稔(ネン)で、年は稲(トシ)でした。
そして、お正月にはお盆と同じく祖先の霊が訪れると信じられていました。お盆の盆棚と同じようにお正月には年神棚があり、迎え火や送り火をたくようにどんど焼きがあります。また、大昔の新年だった小正月もお盆も、十五夜を挟んだ行事であったことも共通しています。この信仰は、世界各地の民族の間にも見られますが、日本の正月行事にもそうした意識があります。年末になると大掃除をして周辺を浄化します。門松を立て、餅を買うという正月準備は欠かせません。年の変わり目にはあの世から精霊たちがやってきます。特に先祖の霊が年の神として来ます。松を目印にして祖霊が空中を飛んでくるのです。そして、家の中に入り飾られた鏡餅に落ち着きます。門松も鏡餅も祖先の霊が寄りつくための依代(よりしろ)なのです。
特に鏡餅には年の神の霊魂がこもるといわれます。お雑煮に餅を入れるのも鏡餅を食べることとつながっています。多くの地域で鏡餅が丸いのは霊魂をかたどっているからです。
今、子供たちの楽しみになっているお年玉も元々は餅でありました。お年玉は年霊(としだま)・年魂(としだま)であったのです。そして、年の神の玉を分かち与えるという意味があるのです。
そして、しめ縄は年神祭の祭場の標示です。もちろん地域によってさまざまですが、年の変わり目には祖霊だけでなく悪霊もやってくるので、人々は家の内外にしめ縄を張り巡らしたり、松飾りにつるすといわれます。家中でおこもりをし、村の鎮守の境内に参り、そこで一夜を過ごして災厄を防ごうとしました。大晦日の日に家族団らんの一時を送ったり、初詣をしたりして元旦を迎えるのもそれとつながっているのです。
大晦日から元旦に至る時間には、お寺や教会の鐘、港の船の汽笛や自動車のクラクションなどの音が鳴り渡ります。音色により悪霊を除き、古い時間を捨て新しい時間に突入した瞬間で人々は高揚するのです。
この一年間を順調に過ごしたいという思いは、絵に描いた門松やセット販売される松飾り、金額ばかりを気にするお年玉など、形骸化して現代の正月となっています。
このように、門松を建てしめ縄を張る風習は平安時代に始まったといわれ、千年を超える伝統に支えられています。したがって、和風です。
しかし、最近のお正月は和洋折衷となっています。羽根突き、たこ揚げ、かるたなどの風物も近年は見ることが少なくなっています。門松を建てる家は減少し、晴れ着姿の女性も少なくなっています。近年の正月がどこか寂しいのは正月文化が形骸化し、和風が減少しているからだとも考えられます。和洋折衷の象徴は第九交響曲ではないでしょうか。第九の演奏が日本で初めて行なわれたのは、第一次世界大戦当時の1918年6月、ドイツ兵捕虜収容所が徳島県鳴門市にあり、その兵士たちが演奏したことに始まります。日本人による初演は1924年です。師走と第九の因果関係には諸説がありますが、ベートーベンの交響曲で最後を飾る曲が一年の締めくくりにふさわしいと考えられたともいわています。
また、「しめ飾り」も徐々に様変わりし、「おかめ」や「宝船」が減りつつあり、洋風のリース型が若い世代を中心に人気を集めています。マンション世帯の増加などが背景にあるといわれます。また、「しめ飾り」のような縁起物を値切る人が増加しており、正月に対する日本人の意識も大きく変わりつつあるようです。さらには、面倒臭いので飾らない人が増えているのです。鏡餅にいたっては、ウルトラマンやドラエモン、並びにハローキティなどの人気キャラクターをあしらったものまで出現し、ヒット商品となっています。
一方のクリスマスも、もともとはこの頃から昼が次第にのびて太陽の力が強まってくることから、その日を太陽の誕生日であると見なしていたのだといいます。春の到来を祝った日本のお正月と共通するところがあるのです。ハッピークリスマス&ハッピーニューイヤーなどと一緒にしてしまう人も増えています。
年賀状を多くの人と交換するようになったのも、明治にはいって郵便はがきが発行されるようになってからです。もともとは、元旦に親元や本家に集まって先祖祭に参加したり、生きている親を祝福する一家一門の儀礼であったのです。ちなみに、お年玉つき年賀はがきは1950年から始まりました。時代の変化とともに正月文化は少しずつ変化しています。
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辞書でミレニアム(millennium)を調べると、「千年間、千年期、至福千年(キリストが再臨してこの世を統治するという神聖な千年間)、千年祭、特に幻影としての黄金時代」とあります。このように、ミレニアムにはさまざまな解釈があります。
今から千年前、ミレニアムは西暦1000年を意識しており、西暦1001年を意識していたわけではないのです。ミレニアムは千年王国でした。したがって、もうすぐ訪れる西暦2000年および西暦2001年でもミレニアムは、西暦2000年を意識しているのです。
しかし、センチュリーの概念がキリスト生誕の数百年後にできたように、二度目のミレニアムを人類が経験することとなり、初めて、暦の単位としてのミレニアム(千年紀)を位置づけることが可能となり、第三ミレニアムの始まりは西暦2001年であることが明らかになりつつあるのではないかと考えられます。ミレニアムの訳に「千年祭」などに加えて、「千年紀」という意味が付加される時が来たのです。
西暦が日本に定着したのは実は今世紀になってからで、日本にセンチュリーという言葉が定着してまだ百年たらずであります。ミレニアムという言葉にいたってはほとんど知られていないのが現状です。例えば、1901年1月1日に福沢諭吉は20世紀の始まりを祝いました。その目的は、20世紀の始まりは1900年ではなく、1901年であるといった認識を明らかにすることにあったといいます。
ミレニアムという言葉は、千を意味するラテン語のミルからきています。センテニアルが百年祭、百年間を意味するのに対して、ミレニアムは千年祭、千年間のことなのです。
ミレニアム、つまりは千年王国の概念はヨハネの黙示録第二十章第四節六にある。「キリストが再臨したあと地上にメシア王国を建て、最後の審判前の千年間そこを統治するだろう」とあるのです。これが千年王国の信仰を生んだのです。 また、「世紀」という言葉は「センチュリー」とはニュアンスが異っています。「世紀」は日本文化の中ではぐくまれ、暦としての世紀を超えて日本文化に根づいています。「世紀のご結婚」や「世紀のイベント」などは、決して世紀をテーマにした結婚やイベントではありません。そして、世紀の変わり目の結婚やイベントでもないのです。これらの「世紀の」は「一生に一度あるかないかの」と置き換えてもいいと考えられます。世紀は百年間であり人間の寿命に近いというのがその理由です。そのために、一生に一度しか体験できないような出来事を「世紀の○○」というのではないかと思えるのです。最近のニュースを見ても故ダイアナ元イギリス皇太子妃のドレスの競売を「世紀の競売」、三千年に一度というヘール・ボップ彗星の天体ショーを「世紀の天体ショー」、香港返還のイベントを「世紀のイベント」などといっています。
また、政見放送などでも「二十一世紀に向けて」などとよく言われますが、それらを検証すると2100年までの百年間を見据えたものは少ないようです。むしろ21世紀に生き残る自分の生活のイメージを尊重した個人的な未来観に立脚しているのです。世紀というものが人間の寿命と重なると同時に、祖父母と父母と自分と子供をつなぐ三世代から四世代の長さとも合致して、現世でひいおじいちゃんがひ孫に向かって思い出話を自慢できるのが世紀です。
世紀越え体験をする人々の多くが、21世紀の半ば頃にはこの世にいません。「21世紀に向けて」とは一体どこに向けているのでしょうか。四十歳で凶弾に倒れたジョン・レノンは最後のラジオ番組で「生きていれば希望がある」と話していましたが、「21世紀に向けて」という言葉には、20世紀末に生きている大人たちが子供たちに送る愛や希望ではないかと思えるのです。
それに対して、ミレニアムはあまりにスケールが大きいようです。千年というスケールは百年というスケールとは大きく異なります。千年というスケールでとらえると紫式部、エジソン、コロンブス、ガンジー、ナポレオン、ならびにディズニーなどを一つのまとまりとして傾向を示していく必要が生じます。百年の傾向を示すことより千年の傾向を示すことの方がはるかに難しいといえます。
しかしながら、西暦2000年の到来は世紀という百年のスケールだけではなく、ミレニアム(千年期)という千年のスケールで考えることができる絶好のチャンスとなっています。多くの宗教で千年というものは大切な意味を持っています。また、哲学の世界でもプラトンが「魂は千年目に回帰する」といっています。千年という時間の長さは、宗教や哲学によってしか人間の時間感覚と整合性を持たせることができないともいえるのです。また、千年というスケールは、人類と地球との関係を考えるのに適したスケールであるともいえます。
最後に、十年以上前の辞書でセンチュリーとミレニアムに関連する単語を調べた結果を示しました。ミレニアムには千年紀という訳がないことがわかります。ちなみに、最新のワープロソフトでも千年紀と変換するものはほとんどありません。「千年紀」は考古学者などを除き、一般の人々が日常生活でほとんど使うことのなかった言葉なのです。
ミレニアムとセンチュリー(研究社 新英和中辞典 四訂版より抜枠)
millenary:(形容詞)千の、千からなる、千年(期)の(名詞)千年間、千年祭
centenary:(形容詞)百年(間)の、百ごとの、百年祭の(名詞)百年間、百年祭
millennial:(形容詞)千年間の、千年期の
centennial:(形容詞)百年ごとの、百年間の、百年祭の(名詞)百年祭
millennium:(名詞)千年間、千年期、千年祭
至福千年(the millennium)(特に幻影としての)黄金時代
century:(名詞)一世紀(百年)
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